なおこのつぶやき

【楽しむことの、真の意味と価値】

引越し終わったら、なぜか一気になんにもしたくなくなった。
もう「楽しいことだけやろう!」って思ってたけど、からだが全然動かない。
ここ数年の癒しをちゃんとしないで来たツケが今きた、って思った。
でも、一体いつまでこのまま一人でいるのやら。後にも先にも進めない。そんな自分を責めたり、誰かをうらやんだり。
なんだか、宇宙でひとりぼっち。そんな感じだった。
それでもいつかいつかと言い聞かせ、引きこもって、エネルギーチャージすればと思ってた。
でも本当はそれだけじゃなかった。

◆①ドタキャンにまつわる探求の入り口

そんななか、遠出することになって、このことがこころの激震!!!大きな気づきをもたらした。
私もずっとずっと行きたいと思っていたのに、手術先延ばし中のからだが不安で、実現させなかった。だから、行こうって誘われたときは、本当にうれしくてワクワクした。
「ドタキャンしてもいいよ」と言ってもらい、何度も何度も安心を届けられ、
そして待ちに待ったその日は、心底楽しくて、こころゆるむなんとも穏やかなひとときだった。
その時間は、楽しいことさえ何だか分からなくなってた私に、やりたいことってこれだった!って思いださせてくれた。

帰りしなにも、「ドタキャンの選択肢はいつでも持っていて欲しい」と告げられた。
そのときは、行きたいから行ったのだ、と力説した。
後から思えば可笑しいくらいに。
行きたい気持ち、その自分の気持ちを最優先にしたのだと。もちろん気持ちにウソはない。
でもこれもそれだけじゃなかった。
後から本当の理由はそこれじゃなかったと知り、愕然とすることになる。

帰ってきてから楽しかった余韻に浸りつつ、気づけば内省内省、、コンフロントが止まらない。ドタキャンにまつわる自分との対話が始まってた。
そしたら、自分でも知らなかった真実がいっぱいいっぱい出てきて衝撃の嵐!

◆②わたしを楽しませないもの

「もうあるものを楽しめばいいんだよ」
そう言われて、何が私にそうさせないのか、思いもかけず言葉になった。

「わたしは自分を裏切っているから」
「わたしは期待に応えていないから」

約束したり決めたことをやらないのは裏切りだ。
体調理由にしてやらない私は自分も人も裏切っている。
裏切者は楽しんではいけない。

その通りだ。
だからわたしは楽しんじゃいけない。
わたしは自分だけじゃなく、人も裏切り続けている。
自分の期待にも他人の期待にも応えていない。

『裏切り者の私は楽しんじゃいけない』

そう思ってた。知らなかった。
我ながらそんなふうに思ってたんだっ!て初めて知ったら、涙があふれて止まらなくなった。

なんにもしたくなくなって、身動きとれない原因は、ここからきていた。
頭では楽しいことしたいって思っても、「楽しんじゃいけない」ってずいぶんと長い間腰から下が沼にはまってた。
そんなことにも気づかなくて、知らないところでこころとからだがずっとずっと喧嘩したまま、ちぎれそうだった。
無意識の中で、どうしたらいいのか分かんなくて、がんじがらめで、じたばたしても身動き取れなくて、疲れ果ててもう何もしたくなくなっていったのだ。

◆③楽しくないコミットメント

これまで仕事において、研修やカウンセリングはドタキャンしないのが当たり前。
今だって、当然そうだと思って臨んでいる。きっと多くの人がそう思っているのではないだろうか。
約束したら、決まったら、何があっても、どんなに体調悪かろうがやると決めてやってきた。そうしないと、迷惑かける。信頼を失う。企業や人はそんなに甘くない。
わたしの中でドタキャン選択肢無し=コミットメント・レベルAだったのだ。

それでも、これまで、体調面でやむを得ずキャンセルすることもあって。
それが悲しくて悔しくて、途方もなく落ち込んで、、
自分ではコントロール外のことだけど、体調管理も仕事のうち、とか言われることもある。
そうなると、
「あ、やっぱり私がダメなんだよね」って自分を責めてきた。
人に仕方ないよね、っていわれて、自分でもそれで終わらせるしかなくて。
決めたのにやれなかった自分。
「わたしはわたしを裏切っている」
「わたしは人も裏切った」
この考えを生み出した体験はここにあった。
実際人から言われたり、何度もあると期待されなくなることも体験として知っている。

もう2度と自分にがっかりしたくない。そして人にもがっかりさせたくない。
決めてコミットして、それでまた実現しなかったら、また私は私を裏切ることになる。
相手の気持ちを裏切ることになる。がっかりさせる。とりかえしのつかないことになる。
仕事でのコミットが、いつのまにかプライベートにまで広がってた。

◆④「また病気使って」という鋭い刃

「また病気使って」
このことばがずっとずっとグッサリ刺さったままだったことにも気がついた。
人に言われたこの言葉で何年も深く傷つき、血を流し続けてた。
でも傷つくのは、人のせいでもなんでもない。誰よりも深く自分がそう信じているからだ。
「からだを理由に断る私はダメな人間」

体調理由に断ると、みんな受け容れてあたたかく言ってくれる。
「仕方ないよね」
「しょうがないよ」

それでも、わたしにとって、それはなぐさめの言葉ではなく、存在否定のことばだった。

「しょうがない子」
「仕方のない子」
「ダメな子」
「また病気使って」

約束したらやらないのは裏切り。
そうしないと嫌われる。愛されない。裏切者の私は愛されない。

『裏切者の私をみんな嫌いに違いない』
そうだ。
そうだ、そうだ、わたし、そう思ってる。
私の海の底よりも深い、潜在意識の根底に横たわっている黒い呪いに辿り着いた。

嫌われると思ったら、それはもう恐怖でしかない。
そう、わたしはドタキャンして、もうとにかく誰にも嫌われたくなかったのだと知った。

だけど、誰より嫌いになるのは自分だった。
自分のからだを呪う。
邪魔すんな。からだのせいで。わたしの人生の主役はからだじゃなくて、私なのに。
いつもからだが中心にいる。振り回される。そして、自分のことがますます嫌いになり、ますます自信を失っていく。
またこの「病弱はダメで健康がよい」というダークサイド・パターンにうっかりはまるところだった。

本当は、弱い自分が強い自分を創っている。
本当の私はこんなもんじゃない、って思ってた。
理想の自分はもっとやれるのに、って思ってた。
もっとがんばって頂上に行き着かなくちゃ、こうしなくちゃ、って思ってた。
「今の私じゃダメ」って。

だけど、これまで生きてきた日々の道のりすべてが「わたし」なのだ。
私にとっての真実は、いま私がみている「現状」だ。
現状を認めることが、重荷を下ろすこと。明らかに自分を認めること。
屈服するのではなく、自分に降参しよう。
もう自分と戦うのを止めよう。

こんなはずじゃない、こうあるはずだ、今のわたしじゃダメ。
この考えを手放して、よくあろうとしないとき、私はそのままの私に出会い、心地よい自分に初めて出会うことができる。
ハートとつながり、ハートにくつろぐことが出来る。

「弱い私でもすばらしい」

弱いからだのおかげで、人生がとても豊かだ。笑
弱い自分が、私の強さを創りだしている。
弱い自分が、私を支え強くしている。
弱いからこそ、強い。
ダメだからこそ、すばらしい。
ダメだと思ってた自分が、全然だめじゃなかった。
どこまでいっても、「今のわたしでよい」のだ。

◆⑤こころを守るための稚拙な術、歪みの原点

ここまでくると、もうなんだか、とてつもなく歪んでるなぁって。
でもそれは、自分のこころを守るため、傷つかないようにするために、愛されるために、子供の頃にあみ出した術なのだ。
歪みの原点をさらに探求すると、仕事よりもさらに深く、小学生のいじめ体験に行きついた。

放送委員だった私は、当然音楽かけたり放送するのが仕事。
だから炎天下の朝礼や、寒い教室での給食の時間を、空調のきいた快適な放送室で過ごすことができた。テレビも見ることが出来て、ひそかに優越感に浸っていたのを覚えている。
ある日、教室に戻ると、筆箱や教科書やノートが、机やイスの上にばらまかれていた。
すごいショックだった。
優越感がバレたんだ、ばちが当たったんだって思った。
誰がやったか分からない。みんな何も言わない。何事もなかったように授業が始まり、その後も何も起きない。
それがとてつもなく恐怖だった。
この時の体感覚と、今回のドタキャン案件の体感覚はとても似ている。

『わたしは裏切者だ。みんなそう思ってるから、いじめられたんだ。』
『裏切者の私を、みんな嫌いに違いない』

小学生の私は、あのとき確かにそう思ったのだ!
ずっとこの体験に何かあるってわかってて、どうにかしたいって思っていろいろやってきたけど、30年以上たって、やっとやっとやっと意識化された。
この思いが、人間関係に、人生に影響与えてた。
仲良くしたいけど、仲良くできない。
一緒にいたいけど、一緒にいられない。
コアに辿り着き、こころのカラクリを理解し、またしても激震が止まらない。

もともとは仕事においてのワンシーンが、さらに深く幼少期の体験が、思い込みを作りだす。
それが仕事においてもプライベートでも、人生全般において適用され、過度の一般化が起きていた。認知の歪み。それでもこのオーバーゼネラリゼイションは、もう傷つきたくない、愛されたいと願う、自分とこころを守るための術なのだ。
本当にもう笑っちゃうくらいとても稚拙だけれど、とても愛おしい、わたしの考え。

「約束したらやらないのは裏切り」
「やらない私は自分も人も裏切っている」
「からだを理由に裏切る私はダメな子」
「裏切者は楽しんではいけない」
「裏切者の私をみんな嫌いに違いない」

ずらりと並ぶ、自分を守れると思ってた考えオールスターズが出そろった。
おかげで、ずっとずっと居場所がなかった。
もう限界。もうこの手は通用しないのだ。

◆⑥ちゃんと、を超える強烈な禁止令「楽しんではいけない」

 

私は子供の頃から、両親共にとても厳しく育てられた。
ごはんの時は、正座しておはしの持ち方やお行儀をしつけられる時間。できてないと叩かれる。テレビはNHK以外見ちゃダメ。お父さんより先にお風呂に入ってはいけないし、
寝る前には正座して九九を暗唱し、間違えたら茶碗が飛んでくる。泣きながら出来るまで許してもらえない。歩くときも1本の線の上を歩けとか、座ったら膝を閉じろとか、寝てるときは口を開けるなとか、、、他にもあげたらもうキリがない。
とにかく「ちゃんと」して、言うこと聞くいい子でいることが愛されるために必要だった。

でも、「ちゃんと」よりもはるかに大きく深く私に刻まれたメッセージ。

『楽しんではいけない』

ちゃんとしていること=楽しんではいけないということ。
だから楽しむことがとても難しく、苦手だ。
だからこそ、「楽しむこと」は、私の人生をかけて取り組む命題だった。

ちょっと待って。
楽しいこと、楽しむことを自分に許可しないないのは、それこそ裏切りではないの?
自分が心底楽しめないのに、「決めたからやる」というのは、それこそ裏切りなのでは?
やるかやらないかが問題じゃなく、そもそも、自分が「楽しめない」のが裏切りだった!!!
わたしはわたしをずっとずっと裏切ってたんだ!!!
もうなんということでしょう。。
もう自分を楽しませてあげよう、私が楽しむことが最優先!!って腹に落ちた。

相手からしたら、しんどいのに約束したからって来られても、楽しめないし、うれしくない。さらに罪悪感を抱かせるかもしれない、、なんて思ったら、ゾッとした。

気づきの嵐の中で、なんだかだんだんすっごく恥ずかしくなってきて。。
仕事でもないのにコミットAの私は力が入りすぎてて、「絶対」のエネルギーが強すぎて鼻息荒い。本来の私じゃない感じ。
「ドタキャンしてもいいよ、からだが心配だから。楽しいのが一番大事だから」
という本来のメッセージを受け取らず、いくら言っても分からない私って、すごいめんどくさかったなって思ったら、悶絶した。
ごめんって言わずにいられなかった。苦笑

◆⑦森の圧倒的な癒し

どこにも居場所がなくて、宇宙でひとりぼっちで、
そんな私を、森はまるごと包んでくれた。

自然という静寂に包まれて、私のからだの延長線上に樹や森がある
ただ感じたり
ただ歩いたり
ただ食べたり
ただ話したり
ただそうしているだけで、しあわせだった
ただそうしている間に
ちぎれたこころとからだが少しづつ、縫い合わされていった

傷は本当は自然に自然に癒されるものだった。
でも私はずっと癒されたい癒したいと苦しみながら、癒されるのをゆるさなかった。
傷に執着しながら、それが何か気づいておらず、そこに傷があるのを認めることができなかった。
わたしはいつも傷を持ち歩いて、癒されてほしかった傷なのに、いつのまにか大事に抱え込んでしまっていた。
傷がなにか気づかず、見ようとしないから治る機会を与えない。
傷は気づかれ、必要な関わりをされる必要があるのだ。
他者からみていたら、果てしなく面倒くさくて、痛ましくて仕方なく感じるだろう。
もう傷が癒されるのをゆるそう。
もう傷がいやされていい時だ。

自分とつながり、世界とつながり、人とつながろう。
自分のハートに耳をすませ、自分を生きよう。
空の美しさを感じて空とつながり
樹のあたたかさを感じて樹とつながり
山の雄大さを感じて山とつながり
人の優しさを感じて人とつながろう

宇宙でひとりぼっちだった
ずっとずっと居場所がなかった
「ここにいていいよ」
そう自分に伝えよう
そして楽しもう

楽しむことが自分との信頼を創造し、人との信頼を創造する
楽しむことが自分との絆を深くし、人との絆を深くする
楽しむことが自分をしあわせにし、人をしあわせにする
なにより、なによりも、「楽しむ」ことは生きる力だ

顛倒夢想、疾風怒濤の気づきを与えてくれたことにこころから感謝します。

こころが開いた今、何があってもいちいち感動の日々。
ごはんがおいしくて
空が美しくて
月がキレイで
散歩中のワンコにあそぼって言われて
スーパーのおばちゃんにおまけしてもらって

世界や人の優しさにふれて、
ありがたくていちいち泣いてる情緒不安定な人になってます。笑

あーーー、もう山のてっぺんから叫びたい気分。
わたしはみんなが大好きです!!!
これからまた、どうぞ仲良くしてください♡

またここからひとつひとつ始めよう。
わたしらしく、こころ踊る方へ。